PDF:秋季大祭_真明様聖言
「完全自由のメシア教」
於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)
皆様、こんにちは。
この演台は先月の本部での月次祭から使い始めたんですけれども、今日は熱海から持ってきました(一同笑声)。
この間の月次祭でも少しお話ししたんですけれども、この演台は、4年前教主様がポルトガルに行かれた時、ポルトガルの会場でこのような透明な演台を使っていまして、いや、これかっこいいじゃないかということで日本でも作ってみたんですね。今日ちょうどポルトガルのフェルナンド本部長と奥様も来られてますね。フェルナンド本部長、すばらしい案をありがとうございました。
で、その先月の月次祭の時、私は、珍しくと言いますか、食の話をしたんですね。食というか、全身全霊の話ですね。食ということを題材にして全身全霊のお話をしました。でも、食のことは普段あまりしない話ですのでね、皆様それをどう受けとめられたのかなと、今そんなことを思っております。
ただ、食といってもこれはもちろん信仰の話ですよ。というのは、明主様の信徒というのは、教祖明主様の仰せになったことやなされたことを、自分たちの心や体を使って、それにお応えして、お仕えするということですから、だから、食のことだからこれは信仰の話とは違う、と受けとめてしまわれるのではなく、やはり信仰の話だと受けとめる必要はあるのかなと思います。
食のことでいろいろ具体的にお話ししたことは、今後出る『グローリー』とか、また、ご覧になれる方は、YouTubeで「新時代の食 ~明主様の願いをお受けして~」という題を付けたので、それをご覧いただければと思うんですけれども、でも、簡単に言いますと、結局明主様は、ガンという病気は肉食病なんだと仰せになった。そして、肉食と言っても、明主様にとってそれは主に獣肉──牛と豚ですね──それらを食べると血を濁してしまってガンになっちゃうから気をつけなさいと、そうお仰せになった。
そしてやむを得ずそのような獣肉を食べる場合でも、週に1回ぐらいにしておきなさいと仰せになったんですけれども、この週に1回というのは男性のことですね。明主様は、基本的に女性は獣肉は食べないほうがいいと仰せだった。
あと牛乳のことも有名ですね。明主様は、人間はできるだけ牛乳は避けたほうがいいですよということも仰せになりましたね。
そして最終的には、ミロクの世には人々は菜食家になるんだと仰せになった。でも、菜食と言っても、今の西洋でよく言われているような倫理上とか環境上のことというよりも、健康という観点から人類はそうなっていくであろうということを仰せになった。
明主様の食ということに関してそのようなことをお伝えしたわけですが、そのようなことをお話ししたあと私が思ったのは、自然農法のことです。
ミロクの世になっていくプロセスは、自然農法をすることによって、穀物とか野菜がおいしくなっていくから、自然に人々は野菜を食べるようになり菜食になっていくと、そう明主様は仰せになりました。
そう考えると、メシア教につながる自然農法をされている方々は、明主様の仰せのミロクの世──ミロクの世といってもそれは理想世界のことですね──その世界を造るため、明主様み心実現のため、日々努力してくださっている、それが本当にありがたいことだなと、そういうことを強く思いました。
ですので、今後も自然農法の農家の方々が、明主様の「ミロクの世は菜食」と仰せになった聖言をお受けになった上で日々がんばってくださるなら、それはまさに明主様の来るべき人類の理想世界の実現のための御用に仕えることになるわけですから、本当にありがたいことだなと思います。
万物はすべて神様がお造りになった──これは確かに間違いないですね。だけど、そのような言葉によって、もし自然農法の農家の方々が、「では自分たちは一体何をしてるんだろう」と思われるようなことが今まであったなら、それは申し訳ないことであったなと思います。
私は、明主様み心実現のため努力されている自然農法の農家の方々と共に歩みたいですし、また、そういう方たちに対しての感謝というのを忘れないようにしたいなと思っております。
今なぜ私がこの「食」についての話をしているのかということについては、九月度月次祭の時も少しお話ししたんですけれども、それは、まずは、専従者とか信徒の方の中にガンのような病になる方が非常に多い。そのようなご報告をたくさん聞きます。
そういった中で、実は明主様はこういうことも仰せだったんだよということを、そういう病を持たれている方とか、あるいはその方のご家族とかが、ほんの少しでも、「ああ、明主様はそういうこともおっしゃっていたんだな」ということを思っていただけたらいいなということを思い、私は食の話をしました。
でも、一番の理由は、「全身全霊」ということですね。聖旨にも「全身全霊を捧げ歩む」とありますけれども、僕は最近、この、「全身全霊を捧げる」というのが大変なことだなと思ったんですね。特に、「全身」のほうですね。というのは、「全身を捧げる」ということは体に関わることですから、衣食住も含めた日々の生活が入ってきますね。
全身を捧げる。「全霊」は一旦置いておいて、全身を捧げるということは、これはもう大変難しい。難しいというか不可能なんだと思ったんですよ、私は。全身を捧げるのはもう不可能だと、そう思った。
というのは、我々は、心の奥深いところで、やはり神様、明主様をなめてると言いますかね、そういう思いがあるんだと思うんです。
自分はこういうことをしているからここまでのことにはならないだろうとか、自分はこういう信仰をしているからこの程度のことで神様は収めてくれるだろうとか、そういう思いですね。だから、口では「神様、神様」と言いながら、心の奥深いところでは、結局、自分の都合の枠内で作り上げた「神様」にお仕えしてるんじゃないかと、そう思ったんです。
私は、これを教団の方々に理解してほしいと思ったんですね。それで、食のこととか、いろんなことを通してお伝えしていたんですけれども、これがなかなか伝わらない。やはり、我々の心の中に、「いや、自分たちは全身全霊でお仕えしてます」とか、「自分は神様を利用している存在ではない」というのがありますからね、だから、全身全霊でお仕えするのはもう不可能なんだ、というところまでなかなかたどり着かない。
で、僕は、これは中途半端な話では、もはや全身全霊でお仕えするということの難しさを伝えることはできないと、そう思ったわけです。
ということで、結局、極めて具体的な食の話を祭典の場においてせざるを得なくなったんですね。極めて具体的な話になったから、我々は、初めて、いや、それは都合悪いな、全身全霊というのは都合悪いな、ということに気づけたと思うんです。
もし、抽象的な話とか、あまり具体的ではない話であれば、我々はずっと、いや自分はなんとかできるだろう、なんとか全身全霊でお仕えすることはできるだろう、というところで留まってしまって、そこから脱却することはできなかったと思うんです、私は。
極めて具体的な食という日々の生活に関わること──これを見つめた時、我々の心に湧いてくる思い、都合が悪いなという思い、それがあるはずだと思うんです。それは食じゃない人もいるかもしれないですよ。先月の月次祭でも「仮の話」と言いましたように、食というのは一つの例えなわけですからね。
だけど、具体的な話になると、初めていろいろ出てきますね。いや、これがあるから難しい、これがあるから無理だ、今は無理だ、というような我々の思いを見つめることによって、「全身全霊でお仕えすると言ってるけれども、本当は、全霊どころか、全身でお仕えすることも我々はままならないんだ」、ということに気づけるといいなと、そう思ったんです。
それは私自身も含めてですよ。教団の方がどうとか、信徒の皆様がどうとかということではなくて、私自身、日々、神様に対して、奥深いところで自分の都合を優先して生きてるという自分の姿が感じられますのでね、だからああいうように食の話をさせていただいたんですね。
でも、結局、食というのは極めて具体的な話ですから、そういう話を聞くと、今度は、我々がそれを非常に強く戒律的に受けとめるという問題が発生するんですね。我々は、自分は信仰している、とか、自分は信仰者だ、ということがあるので、いろんなことを戒律的に受けとめたい姿があるんですね。
それは例えば、人に感謝しなきゃいけないとか、何ごとにも感謝しなきゃいけないとか、怒っちゃいけないとか、神様にお祈りしなきゃいけないとか、そのように戒律的にすべてを受けとめる。
でも、本当のことを言えば、我々は、どんなことも、戒律として、教えとして受けとめるのが好きである。特に、信仰をしていると好きなんですね。戒律的に受けとめたい、というのがあるんですね。
だから、今回の食の話を聞いた時、我々の頭の中が、すぐ、「もうこれを食べちゃいけないんだ」とか、「これを食べなきゃいけないんだ」とか、「肉はもう食べちゃいけないんだ」とか、「おいしくなくてもこういう物を食べなきゃいけないんだ」とか、「やりたくないのにやらなきゃいけないんだ」というようになるわけです。そう受けとめようとしてしまう。
でも、今日拝聴した明主様聖言(「御講話」昭和28年9月7日)にもあったように、メシア教には戒律は無いんです。明主様は、私は酒を飲むなとは言わない、そうではなくて、自然に飲まなくなるんだ、それがメシア教であって、それが本当の道なんだと仰せでしたね。
だいたい、食のことに関連して思うのですが、そもそも、我々の「明主様像」というのが、本物の明主様とはなにか違う明主様像を自分たちの中で作り上げてきたんじゃないのかなと思ったりしますね。
例えば今日の聖言。明主様はお酒のことを仰せですけれども、なにか、明主様の布教をする者はお酒を飲めなければならない、お酒に強くなければならない、というようなイメージがあったのではないでしょうか。でもこれは、明主様が聖言で仰せのこととは全然違いますね。
あるいは、肉でもなんでも食べなければならない、それで布教をしなければならない、みたいなイメージを作り上げてきたんじゃないかなと思うんですね。確かに、時の変遷でそういうことも必要な時期はあったのかもしれませんけれども、でもそれは明主様のお姿とは違いますよ。本物の明主様像とは違いますよ。
違うのに、なにか、布教のためとか、この人間世界で生きていくためとか、そっちのほうのことを優先して、本物の明主様像とは違う明主様像を我々が作ってきたところもあるんじゃないかなと思いますね。
そもそも、僕は、明主様のあり方というのは、これは食べていいとか、これはだめだとか、こういうことを思いなさいとか、これは思ってはいけないとか、そういう戒律的なあり方ではなくて、「自然にそうなっていく」というものじゃないのかなと思います。
ミロクの世は菜食である、というのも、なにか戒律的にそうなっていくというより、神様のお力によって自然にそうなっていきますよ、というのが明主様のあり方じゃないのかなと思いますね。明主様信仰とは、そういう信仰じゃないのかなと思うんですね。
また、明主様の生き方もそういう生き方であられたんじゃないのかなと思うんですね。だってなにか戒律を人に課すということは望まれないお方ですからね、明主様は。そして、メシア教において戒律は無いんですから。
だから、もし先月の私のお話によって、その後、おいしくないのにこういう食事をしなきゃいけないとか、やりたくないのに食事を変えなければいけないと思われた方がいらしたなら、それは少し違うと思いますよ。だいたい、おいしくないとかやりたくないのになにかしたってそれは長続きしませんよ。
ですので、もし、私の先月の月次祭での食の話を聞かれて、これからはこうしなきゃいけないんだと戒律的に受けとめられた方がいらっしゃったなら、それは私の不徳の致すところですので、お詫びしたいと思います。そのようなことは私の願いではないですし、明主様も同じだと思います。私も明主様も、なにか押し付けるということを願っているわけではありません。
私自身のことを言えば、私は食に関する明主様の聖言に出会って、「あっ、そうなんだ」「明主様は、ミロクの世はみな菜食家になるとおっしゃってるんだ」と思って、感動して、だから、私の思いの中には、「無理になにかしている」というのはゼロですよ。ただ、自然に、「明主様にお喜びいただきたいな」と思うだけですからね。
でも、他に食べたいものがあれば、なんでも食べますよ、私は。私の中には、これを食べていいとか食べちゃいけないという戒律的な思いはゼロですよ、ゼロ。だってメシア教には戒律が無いわけですからね。
もちろん、できれば明主様の願っていらっしゃる食の生活をしたいというのはありますよ。でもそれも、別に無理に思ってるわけではないですからね。「明主様のみ心にお応えしたいな」と自然に思っているだけのことです。同様に、なにか食べたいものがあれば、「あ、これ食べたいな」と思って食べるだけです。だから、私は、完全に自由ですよ。だってメシア教の信仰というのは完全自由なんですからね。
明主様のみ心にお応えしたいと思って、明主様も自然農法をされていたように、私も家でプランターのようなことをしていた時期もありました。ただ、日当たりが良くなくてその時は続けられなかったんですけれども、そういうことも、無理にしていることではないですよ。明主様のみ心にお応えしたいと、そう自然に思っているだけのことです。
何が言いたいのかというと、我々は戒律信仰から解放されてたはずなのに、食という具体的なことが出てきた途端、我々全体の心がまた戒律信仰のほうに戻っていってしまったんじゃないかと、そう思うわけです。
皆様ご存じのように、今話していることは「食」だけではなく「思い」でも同じことなんですよ。
メシア教というのは何を思ってもいいんです。
普通世の中の宗教は、「こういうことを思っちゃいけない」「こういうことを思いなさい」「こういうことを思うのは悪いことだ」「こういうことを思うのはいいことだ」、ですよ。
今日の明主様聖言にもあったように、世の宗教というのは、戒律を守るとか、道徳的にはこうだということを主張している。世の中、信仰者でなくても、道徳を守らなければならない、ということになってますよね。挨拶をちゃんとしなさい、こういうことは思っていい、こういうことは思っちゃいけない、となっている。
でも、メシア教というのは、何を思ってもいいんですよ。何を思ってもいいし、何を感じてもいい。
もちろん、思わされたり感じさせられたりしたことについて、それを神様に対してどうするかということはありますよ。だけど、世の中の宗教みたいに、「これを思いなさい」「思っちゃだめだ」というのは無いんですよ、メシア教においては。
メシア教においては、何を思っても感じてもいいんです。何を食べてもいいのと同じで、何を思ってもいいんです。これ、普通じゃないんですよ。
だって、今日拝聴した聖書(「マタイによる福音書」第5章17~48節)、この内容を戒律的に受けとめなければいけなかったら、どうするんですか。ものすごい厳しい内容ですよ。
イエスは、自分は律法を廃するために来たんじゃない、律法を成就するために来たんだと仰せですね。我々としては、「え?イエスは律法を廃するために来たんじゃなかったんですか?」となりますね。でもそうではなくて、イエスは律法を──戒律を──成就するために来たんだと言っている。
むしろ、天地が滅びるまで、律法の一点、一画もすたることはない、そして、律法学者の義よりも私たちの義が勝っていなければ私たちは天国には入れないんだと、そう言っている。
そしてそのあとの内容、これは戒律信仰的に見たら厳しすぎる内容ですよ。
イエスはこう言うわけです。殺したら裁判にかけられるのはあなた方は知ってるね、だけど、あなた方は、人に対して怒るだけでもう裁判にかけられなければならないんだと言うわけです。怒るだけですよ。それだけで人を殺したのと同じだとイエスは言っていますね。
あるいは、誰かに対して愚か者と言ったらもう議会に引き渡されてしまう。あるいは、誰かに対して馬鹿者と言ったら地獄の火に投げ入れられてしまう。誰かに「馬鹿」と言うだけで、ですよ。
あるいは「姦淫するな」ということも──これは、今風の言い方で言うと、性犯罪(真明様追記:性犯罪というより、不倫や浮気と言ったほうが正確でした)ということですけれども──姦淫どころか、そもそも異性を情欲の目で見たらそれはもう性犯罪を犯したのと同じなんだ、そんなことならもう目を取り出しなさいとイエスは言う。異性を見て情欲の念を抱くくらいなら目を取れ、そのほうがまだましだと、そう言ってますね。
下着を取られたら上着も与えなさいともイエスは言ってますよ。人に下着を取られたら上着も与えるんですよ?そして右の頬を叩かれたら左頬を差し出しなさいとも言ってる。
隣り人を愛して敵を憎む、これは誰でもできる。でも、あなた方は敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさいと、そうイエスは言ってますね。
これ、全部できる人いますか?誰かに怒ったことのない人いますか?馬鹿と思ったことないですか?馬鹿と言ったら地獄の火に投げ込まれるんですよ。
だからこれは、戒律的に受けとめたらものすごい厳しいですよ。
受けとめるどころか、これらのこと、実行できる人いますか?
下着を取られたら上着も与える。例えば泥棒が来て隠しているお金の一部を取られちゃった。その時我々は、「泥棒さん待ってください、こっちの金庫もありますよ」(一同笑声)と言わなければならない、ということですね。これ、できる人いますか?
だから、戒律信仰で受けとめたら、今日の聖書のことを実行するのは不可能ですよ。
だって我々の目も心もすべて罪まみれじゃないですか。人に対してすぐに怒るし、人に対して馬鹿とか愚か者と心の中で思うこともあるじゃないですか。何か盗まれれば、自分のものをなんとか守らなければならない、次どうやって防御しようかと、そう思ってるじゃないですか。でもイエスが言ってるのは、もっとあげなさい、ですよ?
だから、この内容、戒律信仰で受けとめたら救いはもう無いですよ。
ではどう受けとめなければならないのか。
ここの、律法を廃するためではなく成就するために来た、というこの「成就」がどういう意味かですよね。「律法を成就する」とはどういうことなんだ、律法学者の義よりも我々の義が勝るとはどういうことなんだ、そこですよね。
だから、「律法を成就する」とは、簡単に言えば、「ああ、私は罪人で何一つできませんので赦しをお受けしたいのです」、ですよ。
これ、簡単みたいに聞こえますよ。だけど、ここ、大きな分かれ道なんですよ。
律法を成就するということは罪の赦しをお受けする──言葉としては簡単ですね。だけど、ここ、大きな分かれ道なんですよ。
罪の赦しを受けるということでない場合、もう一つの方法は律法的に受けとめるということですが、これは今まで人類がしてきたことであって、それは、「感謝しなさい」「こう思いなさい」「いいことしなさい」という道ですね。その道で行くのか、それとも、「自分はそんないいことはできないので罪の赦しを受けたいのです」という道で行くのか、これは大きな分かれ道なんですよ。
だから、罪の赦しを受けること、それが律法が成就することであるし、また、我々の義が律法学者の義よりも勝ることでもある。
律法学者にとっては、律法とか戒律を守っていることが彼らの義ですね。そうだとして、我々はそれと戦うんですか?律法学者に対して、「私は情欲を抱いて異性を見たこともありません」と言って、戦うんですか?
だから、我々の義が律法学者とかパリサイ人の義に勝るのは、「自分はできません。なので罪の赦しをお受けしたいのです」と言うことですよ。
これ、簡単そうに聞こえますね。「罪の赦しを受ける」。簡単そうに聞こえる。でも我々は、罪の赦しを受けるということ自体も甘く見てると思いますよ。
確かに我々は、「自分は罪人です」「悔い改めなきゃいけないのです」、ということを言いますね。「自分にはこういう罪がある、ああいう罪がある」、と言いますね。でも、心の奥底で、「でも自分は殺人した人よりはましだろう」というのがあるんですよ、根底に。
ニュースで出るようなとんでもない性犯罪を犯した人とか、あるいは小規模であれ大規模であれ人を殺している人たちのニュースもありますね。戦争みたいなのもあるし、ただの殺人もありますね。
だから、「自分は罪人です」「悔い改めなきゃいけない」とは確かに口では言っているけれども、そういうとんでもないことをしている人たちより自分はまだましだというのが心の奥底にあるんですよ。あるがゆえに、罪の赦しを受けるといっても受け方が中途半端なんですよ。「あんなひどい性犯罪を犯したとんでもない人よりはましだ」というのを心の奥底にしっかり持ったまま、「自分は罪人なのでお受けします」と言ってるぐらいの甘いものなんです、我々が罪の赦しを受けると言ってもね。
だからそこの甘さをイエスが今日拝聴した聖書のところで突いてますよ。
「あなたは人を殺したことがないから自分はまともな人間だと思ってるでしょ。だけど、怒っただけでも人殺しと同じなんですよ。それどころか、人のことを馬鹿と言うだけで地獄の火に投げ込まれますよ」とイエスは指摘してる。
「私は罪人ですけれども性犯罪は犯したことはありません」と言っている我々に対して、イエスは、「異性を情欲の目で見たことはないのか。それなら性犯罪を犯したのと同じだ」と指摘してる。
「私は人にいいことしてます」と言う我々に対して、「じゃああなたは殴られたら反対側の頬を出せるのか」と指摘してる。
「利他愛の実践してます」と言う我々に対して、「あなたが嫌ってる人、あなたを迫害してる人に対して祈れるのか」と指摘してる。
我々の現実はどうかというと、「自分はなんとか一生懸命生きてきて、人も殺したことはありません、性犯罪もしたことはありません、人に対してもできるだけ親切にしようとしています、でも悔い改めます」、ぐらいの思いなんですよ。
でも、罪の赦しを受けるとしたら、最後の一コドラントまで払わなければ獄から出られないと聖書にも書いてあったように、「自分は罪人だけどあの人よりはましだ」なんて思ってたら、一生獄から出られないですよ。
自分の心の奥底で、「自分はあの人よりはましだ」「これはしてない、あれはしてる」、というような戒律信仰の中にいながらにして、どんなに「罪の赦しをお受けします」と言ったって、最後の一円、最後の一銭まで払い切らなければ獄からは出られないんです。
ということは、「自分は罪まみれでどうしようもない存在です」ということが本当に肚に落ちて、その上で、「罪の赦しをお受けしたいのです」とならない限りは、もうずっと獄に入ったままになるんです。
だから、戒律信仰でいく限りは、ずっと獄に入ったままですよ。「自分は少なくともこれは守ってる。少なくともこれはしてない」なんていう思いを奥底に抱えたまま、「罪の赦しを受けたいのです」なんて言ったって、100%じゃないじゃないですか。「90%の罪は認めます。99%の悪人であることは認めます」と言ってたとしても、心の底辺にあるじゃないですか、「自分はまともな人間だ」というのが。そんなことではなんの意味も無いんですよ。
メシア教は、本当に、戒律はゼロなんですよ。これは大変なことですよ。大変な福音。
今日の聖書の箇所、キリスト教の方々は、「我々はパリサイ人の義より勝らなきゃいけないんだ、だから我々は異性を情欲の目、淫らな目で見ちゃいけないんだ、でもなかなか難しいな」「人に対して怒っちゃいけないんだ、でも怒っちゃった、なかなか難しいな」、という世界ですよ。
キリスト教徒の方々、確かにイエスのことは受け入れてますね。でも、せっかくモーセの十戒をクリアしたのに、今度はイエスが来てもっと厳しい戒めを残して、それを実践しなきゃいけないみたいになってるんです。戒律の獄の中で苦しんでる。
でも、今日の聖書のところで本当にイエスが言わんとしてるのは、「罪の赦しを受けなさい」ということですよ。
最後の最後の一銭がまだ残ってるじゃないですか。自分はぎりぎりまともな人間だというのが残ってるじゃないですか。それでどうやって獄から出られるんですか?最後の一銭まで支払い切らなければ獄から出られないということは、自分はどうしようもない罪人なので赦しをお受けしますと心底ならない限りは獄から出られないということですよ。
だから、今日の聖書のところを、「この戒律は厳しいな。でも守らなきゃいけない」と受けとめて、ずっと戒律を守る生き方で生きていくのか。それとも自分が罪人であることを本当に認めて最後の一銭を払い切るかどうかですよ。
「如何ならむ罪も赦させ如何ならむ罪も尤むる天地の神」。
明主様の御歌ですね。
どんな罪も赦す、これはいいですね。でも、どんな罪も尤めるんですよ。ということは、「罪の赦しを受けなさい」ということですよ。
我々はどんな罪も尤められてしまうんですよ。どうやってそこから脱出するんですか。
それは贖罪主しかないじゃないですか。如何ならん罪も尤められるのから逃れる方法は、罪の贖いをした者を受け入れる以外ないじゃないですか。
だから、イエスですよ。イエス・キリストの贖い。だってイエスが罪の贖いのためにご自分の身と血を捧げてくださったんでしょ?
イエスを受け入れること──これは何も大変なことを言ってるんじゃないんですよ。人として当たり前のことですよ。
だって、明主様がイエスが贖罪主だと仰せになって、そして、如何ならん罪も尤められてしまいますよとおっしゃっているんだとしたら、人間の唯一の生き残る道は──メシア教の信徒とかそんなことは度外視ですよ。もう関係無いですよ、そんなことはね──獄に入って戒律信仰のがんじがらめの生き方ではなくて、これから人として生きていくためには、イエスの血を受け入れるしかないんです。
善人面して生きていってもいいですよ。自分はこういうことしてます、ああいうことしてます、感謝してます、こういう活動してますと言ってね。でもそれは、明主様からしたら、「そうですか。ご立派ですね」、で終わりですよ。
そんな善人面して生きてどうするんですか。
そうじゃない生き方があるんです。
だって明主様は、如何ならん罪も尤めると仰せですね。罪の赦しを受けない限り、それ、ずっと課せられてしまうんですよ。それ、厳しいじゃないですか。生きていく中で、「またこういう罪を犯しちゃったかな」「またこの罪を犯しちゃったかな」「良くない思いを抱いてしまったかな」という生き方は大変じゃないですか。
でも、そのような心の獄から出る方法があるんです。分からないかもしれませんけれども、我々は今、獄に入ってるみたいなものなんですよ。
だから、何をおいても我々の罪の代償を支払ってくれたイエスの贖いの血、これですね。我々は、「贖罪主であるイエスを受け入れます」とすれば、もう自由ですよ。獄から出て自由の身になれる。
だから、メシア教に戒律が無いというのは、それは、イエスの血を受け入れれば、ですよ。
本来、人類はもう完全に解放されているんです。何を思ってもいい、何を食べてもいい、もう自由なんです。
聖書では、「滅びのなわめ」という言葉がありますが、我々は、心も身体も滅びのなわめでがんじがらめじゃないですか。自分自身を戒律のようなもので縛って、実際に身体も重たいですよ。重たいじゃないですか、身体。
自分が罪人であることを認めなければ、もうずっとその滅びのなわめですよ。ずっと自分でその重荷を引きずって、今日は身体が重たいな、なんかやる気しないな、なんか元気が出ないな、となってしまってるじゃないですか。
でも本当は、そういう姿からは大きく解放されてるんです。我々は、鳥になって羽ばたきたいなと思う時もあるじゃないですか。でも、本当は今、それぐらい自由に羽ばたいてるんですよ、我々は。羽ばたく存在にならせていただけるんです、本当はね。
だって我々は、戒律の世界である、感謝しなきゃいけない、こうしなきゃいけない、これがいい、これが悪い、というのから完全に解放されたんですからね。だから、我々はもう、大空に羽ばたいているんです。どこにこんなすばらしい救いの福音があるんですか?
確かにキリスト教は立派な宗教ですよ。だけど、結局人間の思いの中に戒律信仰が入ってくるんです。こういうことを思っていい、こういうことは思っちゃいけないというのが入り込んでくるんです。それはどの宗教も、ですよ。
でもメシア教はゼロなんですよ。戒律ゼロ。1個とか2個とか3個ぐらいある、じゃないんですよ。こんなすごい福音がどこにあるんですか?
今まで我々の心はがんじがらめだったじゃないですか。「こういう思いを抱いていいのかな」「いや、思っちゃいけない」とか、「なかなか感謝できない」とかいう思いでがんじがらめだった。でももう我々はその世界から解き放たれたんです。神様の広い大空に飛び回ってるかのごとく、我々はすでに完全な自由の中に迎え入れていただいた。だから、そこにあるのは本当の明るさと楽しさと喜びですよ。
人類はそういうふうに歩んでますか?歩んでないですよ。こういうことを思っちゃいけない、これは思っていい、これはいい、悪いとかと言って、もうがんじがらめで生きてるじゃないですか。でも、メシア教は戒律ゼロなんですから、何を思ってもいい、何を感じてもいいんです。
だから我々は、今回の食のことで、また戒律信仰のほうに引っ張られる思いが出ましたけれども、そのことによって我々の本当の信仰のすばらしさを今日知ったじゃないですか。
我々は、メシア教の信仰を知って、それを広めたいわけですよね。でも、今までの我々は滅びのなわめから解放されていないままで伝えてたんじゃないんですか?それでは伝わらないですよ。
いや、だってですよ、普通、「「ありがとう」と言いましょう」「何ごとにも感謝しましょう」、それが宗教じゃないですか。
でも、メシア教の我々は、「もうあなた方は自由なんだ」「神様のみ前にあって、あなた方は何を思ってもいい、何を感じてもいい、完全に自由の世界に解き放たれてるんだ」、ということなんです。だから、我々が今日そのことを知ることができたのは大変な福音ですよ。
今まで私たちはメシア教のことを伝えてきたと思いますが、我々は、メシア教の信仰の本当のすごさが分かってなくて人に伝えてきてたかもしれないですよ。
だとしたら、メシア聖堂はメシア教の信仰の象徴なんですから、我々は、今日まで、なぜメシア聖堂を建てるのかも本当は分かってなかったかもしれない。
でも、戒律から本当に解放された完全なる自由を説くメシア教の象徴となるのがメシア聖堂なんです。
メシア教は、完全なる自由な宗教なんですよ。これをしちゃいけない、あれをしちゃいけない、こう思いなさい、これは思ってはいけません、というのが無いんですから、メシア教においては。
だから今日、ようやくメシア教の信仰のすごさを知った。今日、知りましたね。だから、人にメシア教をお伝えするのも、「自分はもう神様のみ前にあって完全に自由なんだ」「自分は戒律から完全に解放されたんだ」というその喜びをお伝えするんです。
戒律を0.1残しててもだめなんですよ。0.1残ってたらもう100残ってるのと同じですよ。結局我々はすぐそこに戻っちゃいますからね。
我々は、とにかく戒律が好きなんです。というのは、戒律というのは、それを守ることによって他の人よりも自分が勝った存在になれるというのが入り込んでくるんです、我々の心に。だから好きなんです。なかなか逃れられない。でも、それが我々の重荷になってしまっているんです。だから身体が重い。病気になっちゃう。そういうことで病気になってるんですよ、私たちは。
最後の一コドラントを払い切るまでは獄から出られないとあったように、その最後の0.1、最後の一銭を自分で乗り越えなきゃいけないんです。「全部認めます。私は罪人でした。でも全部解放してくださったんですね」と、そういうことです。
メシア聖堂を建てるといっても、こんなにすばらしい救いの福音を伝えるメシア教のメシア聖堂なんですから、やっぱりメシア教の本当のすばらしさを知った上で建てたい、そう私は思います。
で、皆様が思われるのは、メシア聖堂の具体的な情報がなかなか出てこない、ということだと思うんですけれども、ただ、皆様もお分かりになるように、土地を買う前に場所は公表できないですよ、当然。
だから、皆様たくさんご献金くださって、なのに何も進んでないみたいですけれども、でも献金は今まさに佳境なんですよ。何も情報が出てこないみたいですけれども、献金はまさに今佳境なんですよ。
というのは、情報が出た時はもう土地を買った後ですから、それは一段階目の献金は終わった時点ですね。
だから、候補地はいくつかあるみたいですけれども、献金の額がある程度の額だったらある程度大きいところ、そうじゃなければちょっと小さいところと、そういう段階ですね、今は。
だから、何も情報が出てないからといって何も進んでないのかというと、そういうことではないですよ。だって、土地を買うまでは情報は出せないですからね。
もちろん、結果的にどうなるかということは神様、明主様がお定めくださっていることではあるけれども、我々としては、できれば、より良い場所、より立派な、ということを願いますよね。
我々は、メシア聖堂建設と聞くと、「これは大きなことだ」と思いますよね。一方、一人ひとりがさせていただく献金とかは、「これは小さいことだ」というように、我々は小さいことと大きいことを分けて考えがちなんですけれども、でも、本当は、人間一人ひとりがする小さなことが大きなことにつながるんです。
だから、「大きなこと」というのは単独では存在しないんです、本当はね。だって、人間一人ひとりができることが限界であって、それが大きなことになるんですからね。そういう意味においては、人間がする小さいこと一つひとつがもう大きなことそのものなんです、本当はね。
だから、「メシア聖堂建設は何か大きなことだなあ。これはなんとなく進んでいくんだろうな」ということでは進んでいかないんですよ。
我々一人ひとりがする小さなことが、すなわち大きなことなんです。
ですので、我々一人ひとりの言わば誠を結集してメシア聖堂を建てたいなと、そう思います。
だって我々は、「自分は感謝できない人間だ」とか、「こういうことを思っちゃう人間だ」とか、あるいは人に対しても、「あの人は感謝できない人だ」とかああだこうだと言って、もうずっと暗さを持って生きてきたじゃないですか。我々は暗さを持って生きてきたんですよ。心の中に影を持って今日まで生きてきた。
でもそれは、もう解放されて明るくなったんです。底抜けに明るい、底抜けに楽しい未来はいつ来るんだろう、と言ってたその未来は、もう今、来てるんです。明るくて楽しくて喜びあふれて仕方がないという未来はもう来ている。
今日の明主様の聖言にもあったじゃないですか、神様は歓喜にあふれた世界を造りたいと、そうありましたでしょ?もうそれが来てるんです。私たちの心に来たんです。来た。
だって戒律はもう無いんですから。どんなことを思ってもいいし、どんなことを感じてもいい。「あなた方は自由なんですよ」「あなた方の心はもう明るいんですよ」「底抜けに明るい世界にもう突入したんですよ」と、そう神様は仰せなんです。
底抜けに明るくて楽しい世界にもういるんです、我々は。だって、何を思ってもいいんですから。滅びのなわめから解放されたんでしょ?
ということは、我々が引きずっているものはもはや何も無いんです。底抜けに明るい、底抜けに楽しいという人類が願ってやまない完全なる自由な世界がもうあるじゃないですか、我々の心の中に。
神様は何も制限しておられないんですよ。何を感じたって神様はお怒りにならないじゃないですか。赦しておられるからですよ。神様は、「それを携えて私のもとに帰ってきなさい」「私は待ってるよ、お前のことを」と仰せなんです。
こんなすばらしいこと、人類は待ち望んでるに決まってるじゃないですか。自分はそんなすばらしい存在なんだというのを知りたいに決まってるじゃないですか、人類は。
だから、宗教とか、メシア教とか、関係無いんですよ。今、神様の愛がもう人類に臨んでるんです。神様の愛が全人類に臨んでて、我々メシア教はそれをただ仲介しているだけのことです。だからメシア教でなくても、もし我々と同じことを説いている人がいたらその方は我々の仲間ですよ。
我々は、心の暗さとか重荷を引きずって今日までなんとかたどり着いた。で、神様は、「もうその重荷を下ろしなさい」「心の重荷を下ろしなさい。心の影はもう無いんだよ。もうあなたを闇の世界から解放したんだよ」とおっしゃってる。
そんなすばらしい安らぎと喜びと楽しみの救いの福音を我々は知った。そしてそれを多くの人に伝えようとしてる。もう伝えるも何も、自分がその喜びを感じたらそれは伝わらざるを得ないですよ。もう心の影、心の重荷は無いんですから。
だからそれは、我々一人ひとりにかかってるんです。自分自身が最後の一銭を払うかどうかですよ。
これはなんて明るくて解放された信仰なんだ、ということに気づく。信仰というか、神様が人間にご自身の愛をくださろうとしているわけですから、「その愛をお受けします」とすれば、もうそれは人に伝わらざるを得ないですよ。私の言っていること、簡単な話みたいですけれど、こんなこと説いている宗教は無いですよ。
我々は、そういう本当の喜びと明るさを人類よりも先に知らされた。だから、「今までそういうことを思っていませんでした」「ありがとうございます」と言って、世界中の人にも、「もう重荷を下ろしていいんだよ」とすれば、本当に明るい、喜びに満ちた世界になっていく。
今日まで我々は獄に入っていて、鎖でつながれてたかもしれないけれども、もうその鎖は取れたんです。今まで我々の足も手も鎖でがんじがらめだったんです。でもその鎖はもう取れたんですからね。
今日、メシア教の信徒としてそういうことを知らされて、そして、我々は本当に自由な心になったんですから、その自由な心を持って、明るく、楽しく、喜びを持って共に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。