自分が浄まらねばならぬ必要性を感じるか否か
〔明主様〕
一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。凡ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。此様に普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。之が真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にも色色あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこへゆくと我メシア教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。
1952年10月25日「運命は自由に作られる」
〔聖書〕
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子*であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウ*のように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。しかしあなたがたが近づいているのは、シオン*の山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者*イエス、ならびに、アベルの血*よりも力強く語るそそがれた血である。あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
「ヘブル人への手紙」第12章
* 私生子 法律上婚姻関係になく、結婚していない男女の間に生まれた子。
* エサウ 「創世記」第25章参照。
* シオン 「神の都」の意。エルサレムのこと。
* 仲保者 神と人との媒介者。神への取りなしをされるお方。
* アベルの血 「創世記」第4章参照。
〔教主様〕
主神は、すべてを創造された方でありますから、その恵みはすべてに及んでおります。
しかしながら、私どもにとって、そのことを感じ取ることは、中々難しいものであります。
特に、私どもが病気やいろいろな苦しみにある時、憂いや不安、悲しみや怒りの中にある時は、なおさらであります。
だからこそ、明主様は、「浄化」というお言葉をお使いになって、私どもを教え導き、勇気づけてくださっているのではないでしょうか。
明主様は、「病とは身魂浄むるものなれば此上なき神の恵みなりけり」というお歌をお詠みになり、病そのものが、私どもを浄めてくださる「浄化」というこの上ない神の恵みであることをお示しくださいました。
このように、私どもが「浄化」という浄めをいただくことができますのも、主神が、その大きな愛によって、至らない私どもを赦しておられるからではないでしょうか。
明主様は、病気を始め、あらゆる苦しみを、単に悪いものだとする、表面的、習慣的な考え方に囚われていた私どもを解放し、「浄化」という主神の恵みの中に導いてくださり、救い出してくださったのではないでしょうか。
このことを認めさせていただくことが、明主様が度々仰せになった「百八十度の転換」ということであり、だからこそ、私どもは、夜の世界にピリオドを打たせていただくことができるのであると思います。
また、私どもは、「浄化」という恵みは、私どもが神の光によって照らし出されている姿であると受けとめております。
その光は、自分だけではなく、すべての人々を赦し、浄め、救ってくださる光であると思います。
その光は、実に、私ども一人ひとりの中にあります。
2012年12月22日・23日「御生誕祭」
〔真明様〕
怒り、妬み、不安、嫉妬が私たちの心に湧いてくる。それは一見ネガティブなことのように見えるけれども、実はそれは、光が当たると影ができるように、光を当てて救ってあげるよ、あなたの心を通して多くの者を救うよ、そして、心である霊が浄まることにより、結果、霊主体従の法則によってこの地上にもすばらしい世界が顕現されていくんだよと、そういうことなわけです。
今、世の中は、確かに見た目は病貧争に満ちている。でもそれを確実に変えていけるんです。まあ、神様が変えていくというんですかね。というように、病貧争絶無の世界を造る、本当に造る、という業に関われるんです、私たちは、本当のご浄霊を通して。だって今、神様は、私たちの中で浄霊してくださっているわけですからね。
我々の心。我々の心が浄まって、「ああ、多くの者を神様は救ってくださっていたんですね。一番最初の時にすでにすべて救ってくださっていたんですね」と思うことができたら、神様は、「そうだ」とおっしゃってくださって、そして、霊主体従の法則によって、本当にこの地上に病貧争絶無の世界を造り出すという業にお使いいただけるんです。今、お使いいただいているんです。
2023年8月6日「愛の翼」
教会誌『グローリー』No. 45, 2023/10月号掲載
聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)
※注釈は世界メシア教によるもの。