PDF:十一月度月次祭 真明様聖言
「真の救いの三本柱 ―祈り、食、音楽―」
於:本部ご神前
皆様こんにちは。
今日は秋晴れの良い天気になりましたけれども、皆様には、平日の中、教主様のもと、すなわち明主様のもと、すなわち神様のもとにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。
神様は、この紙ではなくて(背後の御神体を指される)、本当に生きていらっしゃる。そして、その神様が私たち一人ひとりの中にいらっしゃる。私の表現はいろいろ拙いところがあると思いますけれども、私は、この場で感じたことを皆様にお伝えして、そして皆様と共に私自身もそれをお受けしたいと、そんなことを思っておりますので、今日もよろしくお願いします。
今日まず皆様にお伝えしたいのは、教団のSNS等で広報しましたのでご存じの方もいらっしゃると思うんですけれども、ハレルヤ・プロジェクトの第一弾ということで、愛知県の瀬戸少年院で慰問コンサートを行いました。
コーラス・メシアの優秀な方々が少年院に入っていらっしゃる方々に対して、ヘンデルの「メサイア」も含めて、コーラス・メシアの歌をお届けした。それが先月10月20日ですね。本当に、瀬戸少年院さんの多大なるご理解とご配慮をいただきまして、そしてまたコーラス・メシアの方々が練習してくださって、そういうことを実現したんですね。
そうしたところ、少年院の職員の方々が非常に感動してくださって、今まで来た団体、個人の中で一番良かったとか、少年院の少年や青年にこういう歌を聴かせたいと思ってたとか、歌ってくださった歌詞の内容に非常に感動したとか、そういうことを言っていただいて、本当に意義のある宗教活動であったなと、そう思いました。
でも、ここで大切なのは、普通世の中でこういう活動をする目的は、慰問コンサートというくらいですから、少年とか青年の心を慰めるために訪問しに行く、ということだと思うんですよ。罪人(つみびと)ではない我々が、罪を償っている、罪人の方たちを慰めに行く、世の中ではそれが「慰問コンサート」という認識だと思うんですよ。
でも、先月の秋季大祭の時にも申し上げたように、また今日の聖書(「ローマ人への手紙」第6章)や、また特に、今日の明主様御歌にも、「罪多き我身我家を赦しませ」―明主様ご自身が、自分の身と自分の家、岡田家ということでしょうけれども、は罪が多いんだと仰せです―ということがありましたように、慰問コンサートの図式は、なにも、罪人ではない我々が、犯罪を犯してしまった罪人を慰めに行くという図式ではないんですよ、本当はね。
だとしたら、なぜ我々は、神様、明主様から命じられて、こういう慰問コンサートのような活動をさせられているのか。
それは何も、我々がそこにいらっしゃる少年や青年より少しくらいまともな存在だからということではなくて、本当は、まず、我々自身が罪から慰められたんでしょ?
我々も含めて全人類はもう罪人ではないということは、それは、イエスの十字架の血によって、我々罪人を慰めてあげたよということですね。だから本当は、我々が慰められるべき存在だったんですよ。
だから我々は、偉そうに、「罪人を慰めに行きます」ということを言える存在ではない。ないにもかかわらず、日常生活を送る中で、自分は少しはまともな人間だと思って生きていますので、簡単に思い上がってしまうのですが、そうなるのではなくて、こういう活動を通して、少年院にいらっしゃる少年とか青年というより、まずは、我々自身が慰められるべき存在であったんですね、ということを思い出させていただく。ということを神様は願っておられるのではないかと思うんですね。だとしたら、神様の慰めを、我々は、そこの少年や青年と共にお受けしようと、そういうことですね。
もちろん、この世において、なにか役を担わされて法を犯すようなことをした場合、そういうところに入らなければいけないというのは世の秩序上必要なことではありますよ。
だけど、誰であっても、我々一人ひとりの心というのはすでに慰められている。神様は、「あなた方は本当は慰められるべき存在であったけれども、私がもう慰めてあげたんだよ」ということを教えてくださっているのであって、それを私たちが知るために、この慰問コンサートみたいなことをしなさいと言われているのかなと思うんですね。
逆に、もし我々が、上から目線じゃないですけれども、なにか、「私たちの愛と歌で少年、青年たちを慰めに行くんだ」というような気持ちをもってこのようなことを行ったとしたら、それでは、本当の意味でその方たちの心が慰められることにはならない。
だって本来、彼らが犯したことを我々が犯してもおかしくなかったかもしれないんですよ。自分がそういう役を担わされて、少年院や刑務所のようなところに行かなきゃいけなかったかもしれない。でも、彼らが、もちろん家庭環境とかさまざまな要素はありますけれども、そういう場所に行かなければいけないというのを我々の代わりに担ってくださっているわけですから、我々は、全然上から目線でなにかできる立場にはない。
だから、「そういう方々と共に慰めていただいたんですね」ということを確認させていただくという気持ちでこのようなコンサートをすれば、もしかしてその我々の気持ちが、少年、青年たちに伝わって、そして本当に、何かほんの少しでも、彼らの今後の人生にとって良い歩みができるようなものを残せるかもしれない。そして、そういうものがどんどん波及していく、ということも起こり得るかもしれない。だって、少年、青年たちがそういう場所に行かなきゃいけないというのは世界中で同じようなことがあるわけですからね。
ですので、このような活動を通して、瀬戸少年院におられる方たちだけではなくて、日本、そして全世界のそういう少年、青年たちと共に神様の慰めをお受けしますということを確認させていただくなら、このハレルヤ・プロジェクトの慰問コンサートというのは非常に意味のあることだなと思います。それによって少しずつ人心が清くなっていって、地上天国と呼ばれるすばらしい世界が造り出されていくという、そういう意義ある活動の一つだと思うんですね。
皆様におかれては、メシア聖堂建設を含めて日々献金してくださっていますけれども、このような活動も本当に意義のある活動だと思いますので、そして、そのためには練習とか宿泊費とかでいろいろお金が必要ですので、それも皆様にお支えいただいて、今後もこういうことがどんどんできたらすばらしいことだなと思っております。
本題に入る前にもう一つお伝えしたいことがあるんですけれども、注意と言いますか、我々が気を付けなければいけないことと言うんですかね、そういうことがありまして、これは、教団の方からのご報告でお聞きしたんですけれども、メシア教の信徒の方が、自宅の前で、主に未信徒の方を集めてコンサートをしたい、そして、そこで、教主様訳詞の「アメイジンググレイス」をある人に歌ってもらおうと、そういう話なのですが、これはこれですばらしい話ですね。そういうことがあったらいいなと思うような話ですね。
だけど、その後分かったことは、「アメイジンググレイス」を歌う予定の方が、いわば、教主様に対してまさに尾行・盗聴・盗撮を実行した教団に属している方である。ということで、当然、教団のほうからその信徒に対して、いや、それは難しいですよということをお伝えした。
教主様はどう思われているかは分からないにしても、教団としては、教主様のお気持ちもありますから、それを慮って、それは難しいですよということをお伝えしたわけですね。だけどこれが、その信徒にはご理解いただけない、という話なんですね。
まず、そのような方が教主様訳詞の歌を歌うべきではないのは当たり前の話だと思いますよ。
その方が属している教団というのは、教主様を教団そのものから追い出し、聖地から追い出し、祖父の代から住んでいた碧雲荘からも追い出そうとしている。そういう仕打ちをしている団体に属する人が教主様訳詞の歌を歌うということは、教主様がどのようにお考えになっているにしろ、周りとしては、いや、それは教主様に申し訳ないことだと思うべきことですね。
例えば我々、あるいはその信徒の方が、ある町に住んでいたとして、そしてその町でなにか大事なお役を担っていて、そしたらいきなり、町の一部の人たちがなにか誹謗中傷みたいのをし始めて、「あなたはもうこの町から出ていきなさい。あなたの住んでいる家も畑も全部、もうあなたのものではありません」となってその町から追い出されてしまった。そのあとに、自分が本当に大切にしてた農作物でも、歌でも、なんかの作品でもなんでもいいんですけれども、それを、そのような行為をした町のグループに属する人が使うと言ったら、やっぱり抵抗あると思いますよ。
だいたい、教主様にとって「アメイジンググレイス」の歌詞は、ご自分の信仰をそこに吹き込まれた、本当に大切なものなんですよ。それを、誰でもホイホイ使っていいというわけにいかないですね。
今日の明主様の御歌で、礼節を守らない自由主義は偽物だぞ(「礼節を守らぬ自由主義こそは贋物なりと知れよ諸人」)というのがございましたね。だから、教主様訳詞の歌、歌ってもいいじゃないか、自由にしていいじゃないか、と言っても、やはりそこには教主様に対しての礼節がなければならないんじゃないのかなと思います。
教主様だったら本当にお喜びになるのだろうか、いや喜ばれない、教主様に対して申し訳ないな、ということを我々としては思わなければいけないし、また、本来、教団が反対しているということは、それは、具体的には、教会長とか教区長が言うわけですよね。
だとしたら、そもそもそれが教主様のご意図かもしれませんよ。もしかして、教主様にこうこうこうですとお伺いしたところ、「いや、それは控えていただきたい」と教主様が言われたことを、教団側は、教主様のお名前を出さずに、教団の立場として、それは難しいですよと言っている可能性もありますね。というのは、教会長や教区長は、現場では教主様の代理ですからね。
二代様の、和のあるところには必ず中心がある。教会は教会長を中心に、教団は教主を中心に、という趣旨の聖言がございますね(「飛躍発展への心構え」1961年4月1日)。
教会長や教区長が言っていることはおかしい、教会長より自分のほうが正しいんだと言い始めたら、そこの教会に和は無いですよね。
やはり、教会長、布教区長、教区長というのは、教主様が、明主様の真の神業を進めることをあなた方に託すとして承認を与えておられる存在ですので、それを忘れてはならないと思います。でなければ、教主様はもう全部の教会に行かなきゃいけなくなってしまいますね。一つひとつのことについて、これどうだ、これどうだということでね。
だけど、そうではなくて、要は、教会長とか布教区長とか教区長を承認することによって、そういう方々にご自分の代わりに働かれることを託しておられるわけですから、それを受けとめないといけないのかなと思います。
もちろん、自由がどんどん広がるのはいいことなんだけれども、やはり秩序とか礼節というものをわきまえた上での自由でなければならないと思いますし、そういう点について、私たち一人ひとりは気をつけなきゃいけない、注意しなきゃいけないのかなと、そんなことを思っております。
それで、今日お話ししたいこと、その本題は、「常識は変わる」ということなんですね。常識は変わる。今日の聖言でも(「病気とは何ぞや」1939年)、ガリレオとコペルニクスのことがありましたけれども、昔は、というか長い間、我々は天動説だと思っていたわけですね。地球が中心で天が動く。
ちなみに今朝も、家から日の出が見えるので、ちょうど娘たちと見てたんですけれども、地球は微動だにしないですね。ビタッと止まったままですね(一同笑声)。その中を太陽がグイッと上がっていく。だから天動説だなと思ってね(一同笑声)、見てました。
だけど、ガリレオとかコペルニクスは、人間的な感覚としては信じられないようなことなんですけれども、太陽が我々の周りを回ってるのではなくて、実は、我々が太陽の周りを回ってるんだと、そう主張したわけです。ちょっと信じ難いですね。もし地球がぐるんぐるん回ってるんだとしたら、今我々、どこかにしがみついて(一同笑声)、飛ばされないようにしなきゃいけないですものね。というように、実感としては天動説なんだけど、ガリレオとコペルニクスは、地動説なんだと主張した。
明主様の聖言にもあるように、当時、ガリレオが使っていた望遠鏡は、悪魔の道具だと言われるぐらい、このことは、宗教界にとっても神様に対するひどい冒涜だということになった。こんなすばらしい人間がいる世界ではなくて、あの太陽みたいのが中心とは何ごとだ、ということですね。ところがどっこい、それからのち、実はガリレオ、コペルニクスが言っていたことは正しかったということになりましたね。常識が変わるわけですね。常識が変わった。
あるいは、奴隷。昔は、奴隷制度みたいのはもう普通にあったわけです。黒人とかインディアンの人とかを奴隷にしてた。でも、近代になるにつれて、それが常識ではなくなっていった。昔は奴隷は当たり前だったんですからね。奴隷をするのも当たり前だったし、奴隷を使うのも当たり前だった。これも常識はだんだん変わりましたよね。常識は変わった。
黒人への差別もありますね。主にアメリカとか南アフリカとかにおいて、黒人は少し劣る存在として見られていた。もちろん、今でも、人類の中の一人ひとりの心の中に人を差別するような思いというのを感じることはまだまだありますよ。だけど、一応、黒人は差別する存在ではないということになりましたね。これも常識は変わりましたね。
じゃあ日本ではそういうことが無かったのかというと、そんなことはなくて、日本でも、ご存じのように、江戸時代とかでは、穢多・非人と言って、あるグループの人を差別してたわけですね、私たちは。
穢多・非人。穢れが多くて人ではない、ということですが、明主様ですら、「罪多き我身我家を赦しませ」と仰せなんですから、穢れが多くない人は本当はいないんですよ。だけど、「あの人たちは穢れが多くて人でもない」ということがひと昔前では当たり前だったんです。これは、我々日本人がしてたことですよ。そういう差別が常識、当たり前だった。
でも、明治時代になって解放令というのが出まして、その常識は変わった。そういうのはまだ部分的には残ってますけれども、だけど、その時、日本人の一部の人は人間でもない、というのから、一応、我々みんな平等じゃないかというふうに常識は変わったわけですね。
あと、女性のこともありますね。日本においては、女性が選挙に参画するようになったのは戦後からですからね。今では、女性は、当たり前のように投票とか選挙とか参加できるようになって、それが常識ですけれども、戦前は、女性は選挙に参加できなくて、集会もできなかったみたいですね。だから女子会とかね(一同笑声)、ママ友とお茶するとかね、何々さんとお茶しに行くとかね、今はそれが当たり前にできる時代ですけれども、それが常識ではない時代もあったんですよ。だけど戦後、そういうことも変わって、女性の方も選挙活動に参加できるようになって、投票したりとか立候補したりとか今はできるわけですね。
あとタバコ。成井理事長の前で申し訳ないんだけれども(一同笑声)、タバコも、今は一応身体に悪いもので、肺ガンがどうだとか言ってますけれども、昔は、タバコは身体にいいという時代もあったんですよ。身体にいいんだということで、国がそれを積極的に推し進めていた時代もあった。今となっては、タバコが身体に悪いのはもう常識みたいになってますけれどもね。
そういうのは面白いですね。常識がだんだん変わっていく。そうなると、今やもう成井理事長も肩身の狭い思いをしてますね(一同笑声)。
あと絵画とかも、「なんだこの絵は」と思っていたのが、その絵は国宝ですと言われた途端に、「いやー、すばらしい絵ですね」と言ったりして(一同笑声)、それを知る前は、「この緑のところなんてカビじゃないか」と言ってたのに、専門家が、「ここの緑のところ、ここがすごい技法なのでこの絵は国宝なんです」と言われたら、途端に、「この緑のところが一番すごいです」みたいになったりしてね(一同笑声)。
国宝と聞いた途端にもう自分の中での常識が大変なことになって、180度変わってしまって、「今まで見た絵の中で一番いい」とか言い出したりする(一同笑声)。
あと、ピカソの絵とかも、ピカソと知らないで、「この落書きみたいな絵はなんだ。これくらいなら俺でも描ける」と言ってたのが、「これは数十億円で落札されたピカソの絵なんですよ」と聞いた途端、「これは誰にも描けない」と言ってね(一同笑声)。ピカソと聞いた途端、何十億と聞いた途端(一同笑声)、こっちの常識が変わるというの、ありますよね。我々の常識が変わることによって、感じ方とか見方まで変わってしまうということ、ありますよね。
最近よく話している食についてでも、たとえば明主様は、肉というのは身体を弱らせると仰せだけれども―これはまだ世の中の常識が変わってないほうの話ですね―ただ、世の中としては、「いや、肉こそが力を付けるんだ」と言っているわけで、これは、世の常識と明主様の常識が違うわけですね。
メディアとかテレビとかで、みんな、肉が力を付けるとさかんに言ってるから、そう言われると、それが常識だと思って、なんか肉食べると元気になるとか思ったりしてるんじゃないのかなと思うんですね。
だけど今、主に欧米においてですが、明主様がおっしゃっていたように、肉というのは身体の血を濁してしまうものであって、実は野菜こそ本当はいろんな栄養素があるんだ、という考え方も出てき始めているんですよ。
日本にはあまりこういう情報は入って来ませんが、ドイツとかでは、もう国民の半数ぐらいは肉をあまり食べないようにしてるようですね。
もしかして今後、そうやって世の中の常識がだんだん変わっていって、アメリカの研究とかの結果で、アメリカも変わって、ヨーロッパも変わって、日本でのテレビとかでも明主様のおっしゃってたことが常識になって、その時に、それまでは、肉を食べると、やっぱりお肉食べたから自分は元気だとか、野菜だけだといまいち元気が出ないと言っていたのが、今度は、急に、「やっぱり肉を食べると血が濁るから元気が出ない」とか、「野菜を食べるとやっぱり元気になる」とか言い出すかもしれませんよ。
そう考えると、明主様を信じる我々としては、世の中の常識が変わってからとか、科学的に証明されたから明主様の聖言を信じるということではないほうがいいのかなと思います。だって明主様の先見性はすごいなと思いますよ、本当に。今日の聖言にもあったように、明主様が主張されていることは、当時、そんなことを言うのは狂人だ、くらいの扱いだったと思いますよ。
だけど今、西洋とか科学の世界において、明主様の仰せだった食のことについてようやく追いついてきている。だから、明主様の信徒である我々としては、そうやって世の常識が追いついてきた時に自分の常識を変えるのではなくて、むしろ、今すぐ明主様の常識を信じたほうがいいんじゃないのかなと、そう思います。
そもそも、肉を食べると元気だとか、野菜を食べるとどうだとかということ以前に、まず、あの明主様の日本アルプスの聖言がありますよね(「之を何と見る」1949年7月9日)。野菜とかの副菜ではなく、そもそも食事というのは穀物が主であるべきだという聖言ですね。
明主様が日本アルプスに登られた時、案内夫の方が、50キロくらいの荷物を背負ってどんどん歩くので、お弁当でどんなものを食べてるのかと明主様がご覧になったら、お米のみであった。お米のみ。梅干しも無ければ菜っ葉も無い。それで毎日山を上り下りしている。
明主様がこの聖言で何を言わんとしているのかというと、栄養は自分の身体が作る、という常識を世に訴えているわけですね。世の中は、栄養は外から摂る、という常識だけど、明主様の常識は、どんなに粗食でも、人間というのは自分の身体で栄養を作れるんだと、それを訴えておられる。
明主様は、栄養価が高いものを摂るとむしろ身体が元気にならないと仰せですが、すごいことを仰せですね。
明主様は、機械を例えに出しておられますよね。例えば、完成された車を工場に持っていったら誰も働かないしお金も生み出さない。だけど、未完成の物を持っていくと、それを完成させようとみんな一生懸命働くし、それで働いている人の生活も成り立つ、そのほうが力が出るんだと、そう仰せです。
という考え方により、むしろ未完成の物、粗食のほうが身体は栄養を作るんだという、これは、世の中の常識と大きく反するすごいお考えですね。
我々は普通、肉のタンパク質がどうだとか、野菜のビタミンがどうだとか、カロリー計算がどうだとか言って、外から身体に入れるものが栄養になる、それが常識なんだと思っていますからね。
でも、実は、アメリカにおいて、現代人は、アルコール中毒ならぬ「タンパク質中毒」になっている、肉ばかり食べてタンパク質の摂り過ぎがむしろ身体にとって危ない、摂取する栄養はできるだけ減らしたほうがいい、というようなことを主張している方々も出てきていますので、これなんかも、明主様の仰せになってたことに世の中がようやく近づいてきているのかなと思ったりします。
このタンパク質信仰、タンパク質中毒について、これは肉をたくさん食べるアメリカ人の話で、日本人には関係無いと言えるのかというと、そうも言えないんですね。
我々も、これからは菜食だ、というと、すぐ、じゃあタンパク質はどうやって摂取すればいいんだろうか、豆腐とか納豆とかをたくさん食べたほうがいいんじゃないか、となりますよね。というように、実は、我々日本人もタンパク質中毒に陥っていて、タンパク質こそ力を付けるという常識を信じているところがあるのではないのかなと思います。
だいたい豆腐というのは、夏に冷奴を食べることからも分かるように、身体を冷やすものですからね。だから、豆腐にはタンパク質があると思って、寒い時期に豆腐とか納豆とか食べたり、豆乳を飲んだりしたら、身体をどんどん冷やして、どんどん元気が無くなってしまいますから、そこは気をつけていただきたいなと思います。
というように、明主様の常識は、世の常識と違う。
でも、常識は変わる、というテーマにおいて今日私が一番お話ししたいのは、「浄化」についてです。浄化と聞かれても、それのどこがそんなに常識が変わるということと関係あるんだと思われるかもしれませんけれども、浄化というのは大変な聖言ですよ。
浄化とは、「一見悪そうに見えることは、実はいいことです」という考え方ですね。これは、本当に革命的ですよ、この浄化という考え方は。
今日の聖言でも、明主様は、病気は神の最大の恩恵なんだと仰せでしたね。最大、ですから、神様からの最も大きな恵みが病だということですね。
でも我々は、病ではなくて、病気が治るのが神の最大の恩恵だと思っていませんか?だって浄化は一見悪いことですから。
だから、病になれば、「早く治らないかな」と思いますし、また、「ものすごい浄化だったけど神様にお祈りをしたら治った。これこそ神様の恵みだ」とか、昔で言えば、「浄霊をしたら治った。これこそ神の最大の恩恵だ」ですよ、我々の考え方は。
だけど明主様は、病そのものが、神の最も大きな恵みなんだと仰せになっている。
しかも明主様、これは病だけではなく、世の中のすべてのことがそうだと仰せですから、例えば戦争とか、戦争までいかなくても人間同士のいろんな争いとか、そのすべての、一見人間の目には悪そうに見えること、そのすべてが神の最大の恵みの発露なんだと仰せである。これは、世の中の人に言ったら、どう考えてもきちがい扱いされますよ。
だって、普通は、現状が悪いというのが前提ですから、なんとか平和になってほしい、とか、世界が平和になりますように、とか言っていますね。明主様が仰せのように、世の中の人は、巻き起こる悪いことは災厄、災いだと思ってる。
だから、これから大変な世の中になると、みんなそう言ってるじゃないですか。これから世の中どうなっちゃうんだろう、戦争もどんどん起こるし、この先世の中どうなるか分からない―みんなそういう考え方に支配されてしまって、全然神の最大の恩恵とは受けとめてないですよ。
でもね、これから大変な世の中だ、と思えばどんどん大変な世の中になりますよ、それはね。だって我々の思いが未来を造るんですから。
そして、このような見方、捉え方というのは世の人の常識ですよね。でも明主様の信徒である我々の常識は、そういう見方ではない。
我々の常識は、そのような一見人間の目には悪そうなことが起きた時、例えば戦争とかについても、「ああ、このような私たちの姿を赦してくださったんですね」、ですよ。戦争の中で、その残忍性はもちろん、誰が上で誰が下とか、優越性とか、いろんな駆け引きとか、そういうの、いろいろあるじゃないですか。そういう人間の姿を赦したよ、という神の最大の恵みの発露、それを神様が我々に教えてくださるためにそのようなことが巻き起こっている。
普通我々は、病気になったら、「良くなりたい。早く治らないかな」と思ったり、戦争についても、ニュースを見て、「早く終わらないかな」「大変だな」と思ったりするくらいですよ。
でも本当は、我々は、そういう時に、「神様ありがとうございます。これらのことは神様の最大の恩恵なんですね」と思わせていただく。だって世の中の人は、せっかく神様が最大の恵みをくださっているのにそうは思ってないわけですからね。
だとしたら、少なくとも明主様の信徒である我々は、世の中の人と同じような発想、常識で生きるのではなくて、明主様が仰せくださった常識で生きなければいけないんじゃないのかなと思います。
では、なぜ明主様は、「一見人間の目に悪く見えることはいいことなんだ」ということをおっしゃれたのかというと、その元は夜昼転換ですよね。
1931年6月15日、48歳の時、明主様は鋸山に登られて、昼の世界の到来を感得された。昼の世界の到来。人類は、ずっと夜の世界、闇の世界に生きていたけれども、これからは光の世界、昼の世界に入るんだということを感得された。
そして、その光がどういう光なのかというと、これが、なんと、罪障消滅の光だということですね。だから罪が消えちゃうわけですよ。我々の罪を消してしまう光。
そしてその光は、街灯のような、そんな小さな明るさの光ではなくて、もっとすごい光なんだ、そういう光がもう出たんだから、あなた方は戸を開けるだけでいいんだと、そう明主様は仰せになった。
光が出ると言っても、明主様が、松明かなんかを掲げて一生懸命その光を世に届ける、というようなイメージではなくて、戸を開けさえすればいい、だって外の世界はもう光に満ち満ちてるんだからと、そういうことを明主様は感得された。
罪障消滅なんですから、そのすごい光というのは我々の罪を赦してくれる光ですね。
で、罪の話に関わるということは、絶対イエス・キリストという存在を抜きにしては語れないですよ。だってイエス・キリストは、少なくとも贖罪主なんですよね?我々の罪を贖った主、主、ということですね。
夜昼転換を感得された時、それこそ明主様はその戸を開けられた。戸を開けて、外の世界に出ていかれた。そして、外は明るいので、ああ、もう昼の世界になったんだと思われた。
でも、その元をたどれば、その罪無しの光は、二千年前、イエスの十字架によってもたらされた光である。その時、世の中は一変したわけです。
だから秋季大祭の時、私は、我々は最後の一銭を支払って獄から出なきゃいけないという話をしたんですけれども、本当は、もう、二千年前、イエスが我々の最後の一銭まで支払ってくださったんです。その時の一発で終わったんです。でなければ、そのあとも、人類はたくさん罪を犯したので誰かまた十字架にかかってください、となってしまうわけですからね。
明主様は、イエスと自分の間には二千年の時を矩って霊的連繫がある、神の密意があると仰せになった。「密意」ということは、明主様は、イエスと自分の関係について、まだ我々に明かされてないことがあるということですよ。当時は、まだ時期じゃないから明かせませんよ、ということだったわけです。でも、二千年の時を矩って自分とイエスには霊的連繫があると仰せなんです。
ということで我々は、明主様から聞きました。戸を開ければいいということを聞いた。でもその時に、世の中の常識に引っ張られるわけです。いやそんなうまい話ないだろうと思って、ドアはめちゃめちゃ軽いのに、「重たい!」「全然開かない!」と言って一生懸命押してるんです(一同笑声)、実際はすごい軽いのに。
あるいは、まだまだいろんな犯罪もあります、とか、良いことをしないといけません、とか、そういうので私たちの思いはがんじがらめですから、だから、せっかく明主様が「戸を開けるだけでいいんだよ」とおっしゃっているのに、「重たくて開けられない」と我々は言ってるんですよね。世の中の常識が我々をそうさせている。
でも、なぜ私たちがドアが重たいと感じるのかというと、それは、実は、我々の多くのご先祖様たちが関係してくるんです。我々が、まさにドアを開けんとした時、ご先祖様は我々を通して見たわけです、「あっ、この人は光のあるところに行こうとしている」というのを見たわけです。それで、「なんとか私も連れていってください」と言って我々の身体にしがみついてきてるんですね。
だから重たいんですよ。ドアを開けたいけれども開けられない。もう何十万、何百万、何千万、何億の人類、ご先祖様が、我々に、「なんとか一緒に光のもとに行かせていただきたいのです」と言って我々の身体にしがみついてきているわけです。だから重たいんですよ。
我々が人生においていろいろ抱えてるのはそれだけのことですよ。多くのご先祖様に救いを分け与えるために、いろいろと経験させられているだけのことです。
身体が悪い、身体が重たい、頭が重たい、こうだこうだと言って全然スカッとしないじゃないですか。それは、「私たちにも救いを分け与えてほしい」ということで、ご先祖様が我々にしがみついてるからですよ。だから、それを認めない限り、絶対スカッとはしませんよ。
自分だけが「光浴びたい」と言ってるから、「ちょっと待て」となってるわけです。「あっ、戸を開ければいいんですか?光浴びられるんですか?いや、すばらしいですね」と言って、じゃあ「行きたい」となったところで、ご先祖様が「待て」と、「先達である俺たちを忘れたのか?」となってるわけです。それが分からないから、「重たい。なかなか開かない。どうしてだろう?」となってる。
だからその時に、あっ、自分だけで行こうとしてましたけれども、ご先祖の方たちが苦労したから自分という存在がいるんですね、ということで、「ご先祖様、先にどうぞ」と言ったら、「じゃあ、一緒に行きましょう」ということで、簡単に戸が開けられるかもしれない。
自分だけで行こうとするから後ろから引っ張られてしまってるんです。それで戸が重たくなって、「開かない!」と言って、そして世の中の常識のほうに自分の思いが囚われてしまうことになってるわけです。
明主様はすばらしい光の世界の到来を告げてくださったんです。だけど我々は、明主様亡きあと、いつの間にか今話しているような人間世界の思いに囚われていったと思うんですね。
明主様ご在世中は、病気とかいろいろあって、治るケースも治らないケースもあったと思いますけれども、信徒の心の中に、「何があっても絶対大丈夫だ」という気持ちがあったと思うんですよ。
だけど、ひとたび明主様がお亡くなりになると、なかなかそうはいかなくなった。
そして、まあ、手を掲げての浄霊の影響が大きいですよね。治る時はいいですよ。浄霊で治った。いい話ですね。
でも、治らないケースも出てきますよね、当然。あるいは治ってもまた再発するケースも出てくる。そうすると、こういうケースの時、いつも言うように、なまじっか奇蹟を受けているがゆえに、病とか病が再発することが悪い状況だと捉え出すんですね、私たちは。「なんとか良くならないかな」という世界、そこに行ってしまう。
「奇蹟が起きてほしい」「浄霊というのは治す力があるんだからなんとか良くならないかな」という世界に行ってしまって、本当は病は神の最大の恩恵なんですから喜ぶべきことなのに、いつの間にか喜べないことになっていくわけです、浄霊で治せるかもしれない、というふうになるからね。
そのようにして、我々は、明主様の常識の世界から、人間界の常識の世界に入っていってしまって、そうなると今度は、自分の身体のことだけではなく、世の中を見ても、「もう少しいい世界にならないかな」とか、戦争が起きたら、「ひどいな、なんとか早く終わらないかな」とか、そういうふうになっていったわけです。
世の中では、よく、ポジティブシンキングと言って、悪いことがいろいろあってもくよくよせずがんばっていこうじゃないか、前向きに生きていこうと、そういうのがあるじゃないですか。ポジティブシンキング。
でも明主様にとっては、その「悪いこと」そのものがもはや存在しないんですから、もう、超ポジティブシンキングですよ。
善悪いろいろある、でもいい思い持っていこうじゃないか―それが世の中のポジティブシンキング。でも明主様は、一見目に見える悪いことは実はいいことなんだと仰せなんですから、そもそも、もう悪いことが存在しないんです、明主様にとっては。だから、ポジティブシンキングを超えてますね。明主様は、超ポジティブシンキングですね、強いて日本語をつけるなら。
だって明主様は、脳溢血で右手が動かないという大変な事態なのに、「こんなに嬉しい事はない」「メシアが生まれた」と仰せになった。ものすごいポジティブさですよ。
脳溢血の病が治って、それで、「私はメシアとして新しく生まれた」と仰せになるなら分かるんですけれども、明主様の場合、病の最中にあって、そういうことを言われた。
それは、明主様が、病は神の最大の恩恵であると思われてたからですよ。脳溢血ですら、「これは絶対いいことなんだ」と捉えられた。
しかも、ご存じのように、明主様が脳溢血をお受けになり、またメシア降誕をご発表になったのは、ちょうどその年のイースターやペンテコステの時期と符合したため、明主様はそこになにかを感じられて、「私の脳溢血はイエスの復活と関係ある」「自分も、新しい命、神様の命に復活したんだ」と、ものすごく前向きに捉えられた。
また、新しく生まれた、ということは、当然、その前の明主様はどうなったんだろうということになりますけれども、今日の聖書にあるように、その古い明主様は死なれたんですよ。死なれた。というか、本当は、二千年前の十字架の時、明主様も我々も、全人類もれなくイエスと一緒に死んで、その時神様は我々の罪をそこで終わらせてくださったんです。
だって明主様は、新しくお生まれになった時、このご浄化は「特にキリスト教と関係がある」と仰せになったんでしょ。ということは、なにかありますよ、イエス・キリストとの関係のことでね。
だから、二千年前、イエス・キリストが十字架で死んだ時、明主様も我々もそこで死んだ。死んで、これからは新しい命に生きなさい、ということになったんです。イエスが我々のために最後の一銭を支払ってくれた。
ということは、二千年前、我々自身が十字架につけられて死んだ、ということなんです。そして、二千年の時を矩って、明主様は、48歳の時、そのみ恵みを夜昼転換として感得されて、そしてその後、71歳の時、明主様の宗教人生の結論であるメシア降誕を成し遂げられたわけです。神様の真の子供となられた。
これは大変なことなんですよ。戸を開けるも何も、二千年前、もうあなた方の罪の代償をイエスが支払ってくださって、もうあなた方は、今、光り輝く存在なんだと、そういうことなんです。
「あなたの愛を知ったから」という曲の歌詞で、私は、「求めません これ以上」ということを書かせていただいたんですけれども、そうすると、「もう求めちゃいけないのか」と思われる方もいらっしゃると思うんだけれども、実は我々は、求める存在ではなくて、与える存在なんです。
我々は、この世の常識にまみれてしまって、なかなか良くならない、なんとか良くなりたいな、世の中もっと良くならないかなということで、自分の存在を求める立場に置いてしまっていますけれども、そうではなくて、我々は、本当は、与える存在なんです。あなた方はもう王様なんだよ、神様の子供という大変な存在なんだよ、光り輝く存在であって、世の人に幸を与えなさいと、そういうことを神様、明主様は我々に願っておられるんです。
だから我々は、世の常識ではなくて、明主様であり神様の常識に生きなきゃいけない。
世の常識は、病気になっちゃった、なんとか良くなりたいな、なんかもめごとが発生した、早く解決しないかな、戦争になっちゃった、早く平和にならないかな、ですよ。
でも、そうではなくて、その時に、自分を求める側に置いてしまうのではなくて、「これこそが神様の最大の恵みなんだ」「多くの者を救って、多くの者を光の世界に導き入れるために、神様が私を使ってくださってるんだ」「光の世界はあります。なのでその光を与えます」と、そうさせていただくのが我々の立場なんです。
にもかかわらず我々は、求める、求める、求める、求める、で生きている。もっとこれがほしい、もっと健康になりたい、もっとこうだと言って、生きている。
でももう、本当は、神様は我々のことは面倒を見てくださったんです。「もうお前は死なせない」としてくださった。だって神様は、我々に永遠の命を与えると仰せなんですよ。永遠の命だとしたら病気とは無縁の存在じゃないですか、我々の本体は。
だから神様、明主様は、我々に対して、「あなた方は与える立場になりなさい」と、そういうことを仰せなんですね。「何をあなた方はずっと求めているんだ」「そうじゃない」「もうあなた方一人ひとり満ち足りてるじゃないか」と、そう仰せなんです。
これは世の常識とは反しますよ。だって普通、なんか病気を抱えてて、お金でも苦労してて、その中で、「自分は被る側ではなく、与える側の存在だ」と言ったら、あなた何言ってるんですか、と言われてしまいますけれども、でも違うんですよ。
だって明主様は、我々に、ご自身がされていたのと同じ浄霊もさせてくださるし、自然農法もさせてくださるし、芸術活動もさせてくださるじゃないですか。なぜさせてくださるのか。
明主様が最初に所属されていた大本という宗教団体ではすべての人にさせてなかったんですよ。でも明主様は、全信徒も私と同じようにできる、としてくださった。ご自分が光を分け与えるご存在であられたように、あなた方信徒も、私のように、求める立場ではなくて与える立場になりなさいと、そう明主様は願っておられる。
昔は、与える立場の御用の中心は浄霊でしたね。でも明主様は、最晩年、ご浄霊は二の問題だ、これから想念の世界だ、「お念じしなさい」と仰せになったんですから、「祈りなさい」ということです。前は、「浄霊しなさい」。これからは、「祈りなさい」。それが明主様の最晩年の私たちへのメッセージですね。
ということはどういうことかというと、我々の日々の生活の中で湧き起こってくるさまざまなことについて、確かに最初は、これは都合悪いなとか、こんなこと起きちゃったとなりますけれども、そこを、勇気をもって、「多くのご先祖様が救いを求めて、光を求めて、自分のところに集まってきたんですね。私が知らされているこのメシアの光をすべての方々に分け与えたいのです」とさせていただく。だって我々は光を与える立場ですから。そしてこの祈りが、本当の浄霊ですよ。
冒頭に話した慰問コンサートも「与える」ということの一環だと思いますよ。冒頭と話したこととはまた違った意味で、世の人に、メシア教の音楽を通して、本当の神様の光、癒しというのを与えようじゃないかと、それがコーラス・メシアの活動ですね。
昔は、救いの三本柱と言って、浄霊、自然農法、芸術、ありましたね。
今我々は、食のことも少し考え始めていますけれども、食についての明主様の常識を広げていくことによって、そしてまた自然農法の農家さんとご一緒に協力して、結果、世の人が健康になったらいいですよね。
だから我々は、昔の救いの三本柱ではなく、本当の意味で明主様のみ心に沿った真の救いの三本柱を今推し進めようとしている、そういうことです。
「祈り、食、音楽」、ですね。真の救いの三本柱である、祈り、食、音楽。
明主様は、病貧争絶無の世界である理想世界、地上天国を造ろうとされていた。ですね?そして今、我々が知らされているのは明主様が願われていた本当の浄霊ですよ。祈りなんですから、手が無い人でもできますよ。たった一人でもできるんです、救いのために。
真の浄霊である祈り、また、ミロクの世の食も新しい時代の救いの三本柱の一つだし、音楽も、誰でも参加できるものですね。ただ一部の人が、この芸術品すばらしいなと眺めているだけではなくて、我々は、全人類、全信徒が参加できる、真の芸術活動である音楽、これを広げようとしている。
だから僕は、今明主様は、私たちに、真の救いの三本柱―祈り、食、音楽―これを与えてくださろうとしていらっしゃるのではないかと、そう思えてならないのです。
求めるのではなく与えなさいと、それを明主様は願っておられる。
自分が病気でもいいんですよ。だって、病人でしか思えない思いがあるじゃないですか。それを救わずにどうやって全人類が救われるんですか。健康な人はいいですよ。「あなたは健康で天寿を全うしました。おめでとうございます」で終わりの話ですよ。
我々が与える立場になるということは、その前提に、世の常識とは違うところはありますよ。だから、我々が進んでいこうとすれば、当然我々は世の常識とは違うんですから、いろんな抵抗や反対のようなことはあると思います。
だけど我々は、世の常識に生きるよりも、神様、明主様の常識に生きるべきじゃないですか。そして、必ずや神様は、人類すべてを「与える存在」にしてくださいます。だって神様がいらっしゃるのに、いまだに人類が「求める存在」なのはおかしいじゃないですか。
ですのでね、明主様の常識、神様の常識の道を行けば、困難はいろいろあるかもしれないけれども、でも、世の常識で生きるより、やっぱり我々は、明主様、神様の信徒ですから、神様、明主様を信じて生きていく。だって、本来、神様の常識が真の常識なんですからね。人間の常識よりも神様の常識のほうが上なんですからね。
というように我々は、共に、神様の常識に生きて、そして、お互い助け合っていきましょう。世のいろんな声とか、確かにそういうことはありますよ。でも我々は、明主様の本当の救いを世の人に与えてすばらしい世界を造る、それが使命ですからね。
いろんな困難があってもそれに共に立ち向かっていけば、必ずや神様が、この世を、神の常識に基づいた世界にしてくださる。その世界が来ることを信じて歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。