我々の自由の根底にあるものに気づけ

〔明主様〕
 何しろ現代人の健康の低下と来ては洵に酷いもので、その為当局の社会衛生上の注意も、益々微に入り細に渉り、煩に堪えない位である。ヤレ無理をするな、睡眠を多く取れ、風邪を引くな、暴飲暴食するな、栄養を摂れ、防毒に注意せよ等々、全く毀れ物扱いである。剰え病菌の感染を極度に怖れ、結核や伝染病患者には近づくべからず、ヤレ手を洗え、含嗽をしろ、消毒をせよ、マスクを掛けろ、濁った空気を吸うな等々、その窮屈さは生きているさえ嫌になる位である。之が文明のあり方とすれば、文明こそ大いに呪いたい位である。
 それに反し吾々の方の恵まれ方はどうだ。曰く食いたい物を、食いたい時に、食いたいだけ食い、寝たい時に寝、働きたいだけ働き、無理をしてもよく、風邪引き結構、伝染病も結核菌も屁とも思わない。というように人に迷惑を掛けない限り、自己の職業に差支えない限りは、自由無碍、明朗闊達、何等不安ない日常を送っている。恐らく人生之程の幸福はあるまい。之を称して私は健康の自由主義というのである。今日荐りに唱えられている自由主義などとは、比較にならない程の幸福さであろう。
 では右を実行した結果はどうであるかというと、之又大したものだ。私初め信者数十万人悉くそうしているが、結果は一般人よりも罹病率の少ない事は十分の一にも足りない位であるから、病気の不安など全然ないと言っていい。その根本理由こそ今日の医学衛生の考え方は逆であるから、その又逆にすれば真の健康法となる訳である。以上によって医学の無智が如何に人間の自由を束縛し、無益な労力と余計な金を使わせ、生産をマイナスにし、而も凡ゆる不幸の原因を作っているかという事である。
1953年「健康の自由主義」『医学革命の書』

 

〔聖書〕
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
「ローマ人への手紙」第74節~第825

〔教主様〕
 創造の営みの大転換は、今から約二千年前に成し遂げられたのであります。
 この大転換は、万物を始め、地球上に存在するすべてのもののための、否、主神ご自身のためのみ業でありますから、私どもは、このみ業を単に二千年前の過去の出来事として知らされた、ということで終わらせてはならないと思います。
 永遠に生きておられる主神は、一瞬たりとも途切れることのない創造のみ業を、私どもの中でお進めになっておられます。
 過去と未来のすべてを、私ども一人ひとりが持つ〝今〟という思いの中に結んで、み業を成し遂げてくださっています。
 明主様は、この二千年前の大転換を過去の出来事に留めることなく、「夜昼転換」という聖言をもって確認され、ご自身に担わされた罪を御前にお認めになることによって、その罪から解放されたことを確信されました。
 そして、イエスによる贖いを全身にお受けになり、罪赦されたものとなられて、神の子たるメシアとして新しくお生まれになり、永遠に生きるものとなられました。
 私どもも、明主様に倣わせていただいて、まず、自分の中にある罪を認める必要があると思います。
 自分の中にある罪を認めることなくして、どうして主神の赦しを賜ることができるでしょうか。
 そして、明主様のように、イエスによる贖いを信じ、〝今、贖いの御血汐をすべてのものと共にお受けいたします〟と主神に申し上げることができれば、主神は、私どもと、そして、私どもと一体である先祖の方々を悉く罪赦されたものと見なしてくださり、先祖の方々ともども、私どもを新しく生まれる道を歩むものと見なしてくださるのではないでしょうか。
2021
81日「世界メシア教 祖霊大祭」

〔真明様〕
 「地獄への道も天国への道も選ぶがままのこの世なりける」。
 地獄へ行くのも、天国へ行くのも、結局、あなた方一人ひとりの選択ですよ、ということですね。まあ、本当はね、本当は、選択権はないんですよ、本当はね。だけど神様は、慈悲のお心によって、「あなたが決心するまで待ってあげるよ」とおっしゃってくださっている、ということですね。
 私たちは、今までの戒律信仰は、地獄への道に通ずるとは思っていないかもしれないけれども、戒律信仰というのはこの世を主体にした発想ですからね。自分はどういう行いができたか、何をこの地上に残せたか、という発想。その生き方、人の世を主体としたあり方で行けば、待っているのは「死」ですよ。死ということは、もう救われようがない存在ということですから、それは、地獄ですよ。
 だからその道をこれからも歩んで行くのか。それとも、天国の道である、ありのままの自分を神様にお見せして、そして、あなたのもとに帰りたい、神様と一つになりたいという生き方で行くのか。その道を歩めば、待っているのは「永遠の生命」ですよ、「死」ではなくて。
 だから、「死」を選ぶのか、「永遠の生命」を選ぶのか、それを決めるのはあなた方一人ひとりに委ねられているよという御歌ですね、この御歌は。
2021
91日「ありのままで」

問題は、我々がどう受け止めるかだと思うんです。我々が、「あぁ、自分は戒律や道徳的な生き方を全う出来ると思っていたけど、それではやはり限界があります。赦しをお受けさせていただきます」というふうに本当の意味で悔い改めが出来るように、やはり周りにいろいろな方々を神様はご用意くださっていると思うのですね。そういう存在は誰でもやはり必要ですよね。
 キリスト教徒は20億人以上と言われるくらいすごい増えたけど、ユダヤ教徒は、イエスの贖罪の血であるメシアの赦しをまだ受け入れず、ずっと戒律を守って本当に必死に努力してくださっている。でも、そういうユダヤ教徒のおかげで我々はもっと成長させていただけるということがあると思うんです。
 戒律を用意してくれて、それを守ってくれていた人達がいなければ、我々は、「出来ない」という自分の姿に気づくことも出来ないのかなと思うんですね。だって、戒律を守る、ということで必死に努力してくださった方々がおられなければ、「赦し」ということ自身も有効にならなかった。だから、我々が本当にその先達の大切さに気づくことが出来れば、先達も「お前たちよく分かってくれたね」と言って、さらっと「赦し」ということを受け入れるかもしれないですよね。
2016
530日「若手専従者とのご面会」

教会誌『グローリー』No. 46, 2023/11月号掲載
 聖書出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)